ストーリーテラーateruiの物語

たくさんの人に伝えたい日本の歴史を中心に発信していきます。aterui(阿弖流為)とは、東北の地に生きた英雄の名前です。阿弖流為のように強く優しくありたいと思い、この名前をつけています。

戦艦大和と伊藤司令長官③

こんにちは、ストーリーテラーのateruiです。

 

前回の大和の記事の続きを書きます。3本目となります。

 

なぜ、大和が海上特攻作戦に投入されることになったか。大和が沈没した日は1945年の4月7日です。米軍が沖縄本島への上陸作戦を開始したのが1945年4月1日です。大和は沖縄への海上特攻作戦で沈没しています。

 

つまり大和は、沖縄決戦における日本海軍の最後の切り札として、投入されたとみることもできます。事実、大和率いる第2艦隊の海上特攻作戦と呼応して、海軍・陸軍の特攻機を中心とする500機を超す航空部隊による、米軍への攻撃が時を同じくして行われています。

 

ただし、大和率いる第2艦隊への航空機の援護はなかったため、大和は米軍の航空機部隊の猛攻を受けて、沈没することになります。

 

大和が日本(今の山口県、徳山、三田尻沖)を出港したのが4/6,15時過ぎ

米軍の猛攻を受けて沈没するのが、4/7の14時過ぎ

 

日本を出港して、わずか1日足らずで大和は沈められてしまいます。当初、大和率いる第2に艦隊の伊藤司令長官は、1機の航空機の援護もない、海上特攻作戦に反対だったと言われています。(諸説あり)

 

しかし、「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」という、言葉を聞いたとき、「そうか、それならわかった」と即座に納得した、と言われています。

 

大和は、”死に場所を与えられた”と、伊藤司令長官は受けとめ、特攻作戦に参加し、沈没しました。

 

作戦の裏には(背景にある思い)、「大和を戦利品としてアメリカに渡したくない」という考えもあったようです。もし、大和が終戦時まで残っていたとしたら、アメリカをはじめとする戦勝国に戦利品として奪われ、好きなように使われていた可能性がありました。

 

実際、大和と同じように、日本海軍の旗艦(1番艦)を務めていたこともある、戦艦長門は、アメリカに戦利品として持っていかれて、水爆実験の標的として太平洋に浮かべられ、1946年に水爆の直撃を受けて沈められています。

 

日本を象徴する大和が同じ運命をたどっていた可能性があることを考えると、大和が戦いの中で敗れて、沈んでいくことに、意味があったとも言われています。

 

大和と共に沈んだ大和の乗組員は約3000名近くになります。大和と共に海上特攻作戦に従事し、撃沈した艦もあります。たった1度の海上特攻作戦で無数の、日本の若者が命を落としました。

 

みな最後に何を思って、散っていったんでしょうか。私たちは、大和の乗組員をはじめ、その当時の日本人が示した生き方を、学ぶ必要があるように思います。

 

次回、「戦艦大和と伊藤司令長官④」、最終回の投稿として、1記事載せたいと思います。最終回は、戦艦大和の記事を通して、当時の日本人の生き方から、現代の私たちが学ぶべきものは何か、というような観点で書きたいと思います。

 

(つづく)