明治維新と広島藩-歴史の裏-
こんにちは、ストーリーテラーの阿弖流為です。今日は明治維新と広島藩の関連の歴史を書きます。
明治維新で一気に日本の表舞台に立った藩とは。
これが、日本の一般的な歴史で教えられる、メジャーな歴史。
徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還で政権を天皇に返した後、本当は、薩摩、長州、広島の3藩揃って京都に出兵する予定でした。
しかし。直前になって、広島藩は、藩論が統一されず、出兵見送りとなりました。
結果的に、京都に出向いたのは、薩摩、長州の2藩。
もしここに、本来の予定通り、広島藩が加わっていたならば、日本の歴史は全く異なったものになっていたでしょう。
薩摩、長州、広島の明治だった可能性もある。
しかし、広島は機を逃した。
明治維新に出遅れた広島藩は名誉挽回、とばかりに、最激戦地を志願して、戦いに赴きます。
結果、奥羽を攻める最前線に投入されることになります。
会津を攻めるのに、今の茨城から海岸線を北上して、仙台藩や米沢藩の勢力と戦って北上するルートがありました。
広島藩が投入されたのは、この場所。
戊辰戦争を調べていると、海岸線沿いは、すんなりと新政府軍によって後略出来たような印象をつい持ってしまいがちだと思います。
しかし、旧幕府勢力を打ち破ることが出来た背景には、広島藩の捨て身の攻撃がありました。
最前線になって、たくさんの犠牲者も出した。
この歴史を知っている人が果たしてどれだけいるでしょうか。
歴史の裏には、常に、メジャーな歴史ではない歴史が流れています。
裏を知ることにこそ、歴史の面白さがあります。
今回紹介した内容も、全くと言っていいほど有名ではない歴史です。
今日はここまで。
では。