ストーリーテラーateruiの物語

たくさんの人に伝えたい日本の歴史を中心に発信していきます。aterui(阿弖流為)とは、東北の地に生きた英雄の名前です。阿弖流為のように強く優しくありたいと思い、この名前をつけています。

戦艦大和と伊藤司令長官①

こんにちは、ストーリーテラーのateruiです。

 

今日は、戦艦大和(以下、大和)と、大和率いる第二艦隊司令長官だった伊藤整一さんにフォーカスを当てて書きます。

 

”大和”という名が付けられているくらいだから、大和は日本にとって非常に意味のある戦艦でした。

 

宇宙戦艦ヤマト”を観たことがある人、映画”男たちの大和”を観たことがある人もいるかと思います。ですが、大和が辿った歴史を調べたことがある人がどれだけいるでしょうか。

 

日本の過去の歴史を知ることは、現代を生きる上でも非常に大切なこと。大和の歴史を知れば、自身の中の何かが変化することと思います。

 

■大和建造の背景

 

1930年、日本はロンドン海軍軍縮条約を批准します。この条約によって、日本は主力戦艦の保有比率を「対米英の約7割まで」と決定されることになります。

 

この後、

1931年9月18日、満州事変勃発

1933年3月27日、日本、国際連盟を脱退

1935年12月、ロンドン海軍軍縮条約、戦艦の保有率「対米英約7割まで」の有効期間満了

1936年1月15日、日本、ロンドン海軍軍縮会議の脱退を通告

1936年7月、超大型戦艦二隻(のちの大和、武蔵)の建造正式決定

1936年12月、ワシントン海軍軍縮条約「英5・米5・日3」の有効期間満了

1937年11月4日、海軍工廠において「1号艦」(のちの大和)建造開始

1938年3月29日、三菱重工業長崎造船所において「2号艦」(のちの武蔵)建造開始

 

大雑把に書くと、このような過程を経て大和は建造が開始されることになります。当時の世界情勢、日本を取り巻く環境については、別の機会に書きたいと思います。

 

■極秘裏の建造

 大和の建造、極秘裏に進められました。

 

大和が建造されたのは、広島県海軍工廠です。ここは、戦艦長門や空母赤城など、日本の海軍史に残る艦が生み出された場所でもあります。

 

この地で大和の建造は進むことになります。

海軍工廠で働く関係者ですら、必要最低限の人しか大和の近くに行くことは許されませんでした。大和の建造そのものが、軍の最高機密でした。

 

このようにして、大和は、極秘裏に建造が進められ、1940年8月8日に海の上に浮かぶことになります。

 

(つづく)

四季と日本人の感性

こんにちは。ストーリーテラー阿弖流為です。今日は、日本の四季について書きます。

 

先日、水戸の梅を観てきました。水戸の偕楽園が有名です。

 

今の日本で、春、といえば、桜というイメージが強いと思います。

 

しかし、少し調べると、平安時代鎌倉時代の日本では、花、といえば梅というイメージの方が強かったそうです。

 

つまり、少し前の時代の日本では、日本人が持っている春の花に対するイメージは梅であり、今の日本では桜であるということになります。(もちろん、個人個人の差はあるため、おおよそこのような感じという意味です)

 

少し話が逸れました。何が言いたかったかというと、日本人は昔から四季というものを感じて、春には花見などをして、昔は歌、今の時代では写真などに残し、表現する文化があります。

 

日本に四季があるおかげで、日本人の感性は相当に磨かれているものがあります。(個人的な所見です。)

 

春夏秋冬の移ろいの中で、それぞれの季節の良さを感じ取る能力。

 

日本が誇るべきものの一つです。

 

日本人にしかないもの。日本人にしか表現できないもの。

 

これからの時代は日本人の感性が非常に大切な時代になって行きます。

 

感性というものななぜ大事なのかについては、また書きたいと思います。

 

今日はここまで。

 

では。

 

 

水戸藩と明治維新

こんにちは。ストーリーテラー阿弖流為です。今日は、水戸藩のことを少し書きます。

 

先日、水戸にある回天神社を訪れました。

 

御存じの方はほとんどいないと思いますが、ここには明治維新の前後で亡くなった水戸藩の方々、約2,700名のお墓があります。

 

今の日本では明治維新の過程で水戸藩がどれだけ活躍したのかを知る機会はほとんどありません。

 

明治維新の源流となったものは『水戸学』という学問だったという話もあります。

 

水戸学は、戦後GHQによって発禁処分となった対象の一つです。水戸学に関する学問は禁止されたと言っても間違いではありません。

 

明治維新に大きく影響を与えた、長州の吉田松陰ですら、わざわざ水戸に留学して学んでいるほどです。

 

歴史の歯車がほんの少し違っていれば、水戸の明治となっていた可能性は大いにあります。

 

今の日本では薩摩、長州が政権を取った明治維新ですが、水戸が政権を取る可能性は大いにありました。

 

しかし、水戸藩は有為な人材の多くを、明治維新が起きる前に、水戸藩内部での争いによって失ってしまいました。(もちろん、当時の日本全体の社会変動の中での影響も多分に受けています。)

 

有為な人材が失われた水戸が、明治以降、日本社会の中で表立って活躍することは出来ませんでした。

 

今回訪れた回天神社には、なくなく散っていった水戸藩の方々のお墓、天狗党が最後に処刑された福井県敦賀にあった鰊蔵(にしんぐら)などがあり、水戸藩の歴史をじかにみることができます。

 

表の歴史と裏の歴史があるとするならば、水戸藩の歴史は、間違いなく後者にあたります。裏に追いやられた歴史ともいえるでしょう。

 

歴史を知るには、表の歴史だけでなく、消されてしまった、見えづらくされてしまったもう一方の歴史を知る必要性もあります。

 

今回の水戸の歴史はそんなことを教えてくれています。

 

水戸藩の歴史についてはまた書きたいと思います。

 

では。

人生を変えた出会い

こんにちは。ストーリーテラー阿弖流為です。今日は、タイトルの通り、人生を変えたきっかけについて書いていきます。以前載せましたが、もう一度掲載します。

 

あれは、2012年の出来事でした。当時私は埼玉に住んでいて、英会話を東京で習っていた関係で、週に1回ほど、東京に出ておりました。

 

英会話のついでに、一つ、自主上映の映画を観に行きました。その時、たまたま隣の席に座っていた人との出会いによって、私の人生は大きく変化していくことになります。

 

当時私は、世の中の裏の世界(一般的には陰謀論と呼ばれています)を、探求していて、人間社会の未来に、半ば絶望していました。ただ、どこかに、未来を変える鍵があるはずだという確信を持って、色々動いていました。

 

その映画の時に出会った人が教えてくれたもの、それが、「ntech」と呼ばれる、今までにない全く新しい技術でした。

 

「ntech」の詳細の説明は省きますが、「ntech」の凄さは、人間の可能性を大きく広げてくれることにあります。私自身、それまでは未来に絶望しかけていましたが、「ntech」を使えば、人間一人一人の可能性を広げていくことが出来る、という確信を持つことが出来たので、未来に対する漠然とした不安が一掃されました。

 

社会を変えることは簡単ではないかもしれない。一気に変えることは難しいかもしれない。でも、個人、一人一人が変化してくならば、可能性は大いにあります。

 

今から150年前、明治維新の激動の時代、日本社会を動かしたのは、心に火を灯した、日本中の若者たちでした。一人一人の行動の結果として、あの輝かしい明治維新が成し遂げらました。

 

同じように、今の時代も、一人一人の変化によって、一人一人の行動が変化することによって、変えてゆくことが出来るはずです。

 

AIの危機が叫ばれる中、人間にしかできないことはいったい何なのか、という議論が、世界各地で繰り広げられています。

 

「ntech」は、ロボットではなく人間にしかできない能力の開発の仕方を説明しています。だからこそ、これからの時代にますます必要とされてくるはずです。

 

私自身、大きく変化して、今ではやる気に満ちて、勉強すること、生きることがとても楽しくなってきています。

 

またどこかで、「ntech」に関しても書きたいと思います。

 

今日はここまで。

 

では。

明治維新と広島藩-歴史の裏-

こんにちは、ストーリーテラー阿弖流為です。今日は明治維新広島藩の関連の歴史を書きます。

 

明治維新で一気に日本の表舞台に立った藩とは。

 

薩摩藩長州藩

 

これが、日本の一般的な歴史で教えられる、メジャーな歴史。

 

しかし、明治維新の裏には、広島藩の存在がありました。

 

徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜大政奉還で政権を天皇に返した後、本当は、薩摩、長州、広島の3藩揃って京都に出兵する予定でした。

 

しかし。直前になって、広島藩は、藩論が統一されず、出兵見送りとなりました。

 

結果的に、京都に出向いたのは、薩摩、長州の2藩。

 

もしここに、本来の予定通り、広島藩が加わっていたならば、日本の歴史は全く異なったものになっていたでしょう。

 

薩摩、長州、広島の明治だった可能性もある。

 

しかし、広島は機を逃した。

 

明治維新に出遅れた広島藩は名誉挽回、とばかりに、最激戦地を志願して、戦いに赴きます。

 

結果、奥羽を攻める最前線に投入されることになります。

 

会津を攻めるのに、今の茨城から海岸線を北上して、仙台藩米沢藩の勢力と戦って北上するルートがありました。

 

広島藩が投入されたのは、この場所。

 

戊辰戦争を調べていると、海岸線沿いは、すんなりと新政府軍によって後略出来たような印象をつい持ってしまいがちだと思います。

 

しかし、旧幕府勢力を打ち破ることが出来た背景には、広島藩の捨て身の攻撃がありました。

 

最前線になって、たくさんの犠牲者も出した。

 

この歴史を知っている人が果たしてどれだけいるでしょうか。

 

明治維新の影には広島藩あり。

 

歴史の裏には、常に、メジャーな歴史ではない歴史が流れています。

 

裏を知ることにこそ、歴史の面白さがあります。

 

今回紹介した内容も、全くと言っていいほど有名ではない歴史です。

 

広島藩明治維新の繋がりについてはまた書きたいと思います。

 

今日はここまで。

 

では。

明治憲法(大日本帝国憲法)と日本国憲法②

こんにちは、ストーリーテラー阿弖流為です。今日も、明治憲法をテーマに書きます。

 

先日、石川県金沢市を訪れました。金沢には前から行きたいと思っていた場所があります。石川護国神社

 

ここには、明治憲法を語る上で非常に大切な人の石碑があります。

 

清水澄博士。日本で最高の憲法の学者の一人。大正天皇昭和天皇憲法学を教えていた人物。

 

清水博士は明治憲法が葬り去られて、日本国憲法にとって代わるとき、つまり、 1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行日に遺書をしたためて、のち、9月25日に自ら命を絶ちました。

 

なぜか。

 

清水博士は明治憲法を是が非でも守りたかった。しかし、枢密院議長という立場上、GHQの意向を無視して、日本国憲法の受け入れを拒否することは出来なかった。

 

明治憲法がどんな想いによってつくられたのかを、痛いほど分かっていた清水博士。

 

それが葬り去られなければならないとなったとき、どれほど辛かっただろうか。

 

自決した際の遺言にこんな言葉があります。

 

『我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ』

 

国の将来を考える時、憂慮するしかない。しかし、私にできることは何もない。ならば、死して、幽界より日本を守り、天皇陛下の在位を祈願する。

 

自らにできることは何もないと悟って、自ら命を絶った、金沢出身の清水博士。

 

日本最高の憲法学者が命を懸けてまで守りたかったもの。

 

明治憲法

 

たとえどんなに、日本国憲法が素晴らしかろうとも、簡単に捨て去っていいものではなかった。

 

今、日本人で、明治憲法のことを知っている人、理解している人がどれだけいるだろうか。

 

どういった背景で明治憲法が作られたのか。

 

今の日本に、世界にどんな影響を与えたのか。

 

今の憲法の是非を問う時、明治憲法にも考えを巡らせる必要がある。

 

単純に今だけをみていたのでは、脈絡が観えなくなる。

 

どれだけ引いてみることが出来るのか。

 

とても大切な視点。

 

明治憲法とは何かについては、また日を改めて書きたいと思います。

昭和天皇の行幸と日本の戦後復興

日本敗戦後、昭和天皇は全国に行幸天皇が外出すること)に向かわれた。当時、日本が負けて、アメリカに占領されたことによる衝撃は、日本中を覆っていた。

 

食べるもの、住むところを失ったたくさんの日本国民たち。肉親を喪った者もたくさんいた。まさに国として絶望のどん底にあるような状況。

 

この状況を憂えた昭和天皇は、あることを思いつかれた。

 

それが、自ら行幸に行くこと。全国各地を訪ね歩くこと。

 

「私が行って、言葉をかけることで救われる人がいるかもしれない」

 

そんな想いを持って、昭和天皇は全国各地に自ら赴かれた。

 

今、当時の状況について書かれた本を1冊読んでいる。

 

日本が戦争に負けるまでは”神”として、崇められていたような存在、天皇

 

日本各地で、大きな大きな歓声に迎えられることになる。

 

近畿、関東、東北、北陸等々、日本の津々浦々を訪問された。

 

天皇陛下が訪れたことによる、心理的な効果は絶大だった。たとえば、ある町の工場では、天皇陛下が訪れて声をかけられたことで、社員の出勤率や、生産性が大幅に向上した、というような話もある。

 

天皇陛下が、日本を旅してまわったことが、少なからず日本の未来に影響を与えていた。

 

「俺たちももう一度頑張ろう。日本の再建のために一所懸命働こう」

 

というような、気持ちを抱いた人がたくさんいた。

 

敗戦によって、日本はたくさんのものを失ったが、そこから果てしない努力を重ねて復興を遂げた。

 

その陰には、昭和天皇の力も、少なからず存在している。

 

日本のことが好きである自分でさえも、ほとんど知らなかった事実。

 

昭和天皇の在り方を通して感じる、日本の姿。

 

日本は天皇と共にある、不思議な国。

 

今回、1冊本を読んだだけだから、正直、天皇のことはよく知らない。

 

今後、日本というものを深く理解していくためにも、天皇についても調べていきたいと思っています。

 

また書きます。

 

では。