ストーリーテラーateruiの物語

たくさんの人に伝えたい日本の歴史を中心に発信していきます。aterui(阿弖流為)とは、東北の地に生きた英雄の名前です。阿弖流為のように強く優しくありたいと思い、この名前をつけています。

神風特別攻撃隊③~知覧特攻平和会館創設の背景~

こんにちは、ストーリーテラー阿弖流為です。

 

前回に引き続き、忘れてはいけない日本の歴史の一つ、神風特別攻撃隊のことを書きます。今回は、知覧特攻平和会館が創られた背景を書きます。

  

島浜とめさんと板津忠正さん

 

前回の記事で書きましたが、特攻で使用される飛行機は旧式のものが多く、飛び立ったものの、エンジントラブル等でやむなく基地に帰還する飛行機や不時着する飛行機も少なくありませんでした。

 

そして、それから飛び立つ機会もなく、終戦まで生き残る人たちもいました。

 

現代の感覚からすれば、「生き残って良かった」ということになるのでしょうが、当時の人たちにとっては、「なぜ、私だけが生き残ったのだ」と、悩み続けることになります。

 

特攻は生きて帰れない、必死の作戦。一緒に訓練をした仲間たちは、全て戦死した。仲間に済まないという気持ちは、奇跡的に特攻作戦を生き残った人たちの心に重たくのしかかっていました。

 

板津忠正さんもそんな、特攻の生き残りのうちのひとり。悩みを抱える中、板津さんは、知覧の鳥浜とめさんの元を訪れます。

 

鳥浜とめさんは、「特攻の母」とも呼ばれた人で、知覧に存在した「冨谷食堂」の女将でした。「冨谷食堂」は、たくさんの特攻隊員の方たちが、訓練の合間にご飯を食べに行って気を休めたところです。

 

とめさんはたくさんの特攻隊員の方たちを、涙ながらに見送っています。(とめさんのことはまた別の機会に詳しく書きたいと思います)

 

板津さんが、生き残ったことの苦しみ・悩みをとめさんに話すと、こんな言葉が返って来たそうです。少し本から引用します。

 

 

『生き残ったということは残されたということだよ。神様があんたをこの世に残してくださったということだよ。残されたということは、何かやることがあるから残されたのだよ。神様があんたに、やりなさいとおっしゃっている仕事があるはずなんだよ。世間がなんと言おうとも、かまうことはないよ。あんたには、何かやらなければならな仕事があるはずだよ。よく考えてご覧なさいな』

板津はこの言葉に天の声を聞き、百万の味方の励ましの声を聞いた。そうだ、自分には何かすることがあるんだ、しなければならないことがあるんだと、その言葉を噛みしめながら生きる決意をし、家に戻った。

『ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子,赤羽礼子,石井宏著,草思社文庫』

 

 

この言葉を受けて、板津さんは生涯をかけて、日本中を歩いて特攻隊員の方々の遺族を回り、特攻隊にまつわる資料を集めることになります。

 

戦後、日本は、軍国主義時代の全てが悪として葬り去られようとしていました。このままではまずい。なんとしても特攻のことを正確に語り継がなければならない。それが、自分に与えられた使命なのだと、休日の全てをかけて、日本中から特攻関連の資料集めました。

 

そして、戦後40年の歳月を経て1987年2月、ついに、知覧の地に「知覧特攻平和会館」が開館することになります。

 

2018年の今、知覧特攻平和会館に行くと、特攻隊の方々の遺書、顔写真等をみることが出来ます。言うまでもなく、この背景には特攻の生き残り、板津さんの生涯をかけた努力があります。

 

亡くなった仲間のためにも、なんとしてもやり遂げねばならない、そんな想いを常に抱えていたことだろうと思います。

 

板津さんは平和会館の初代館長に就任し、来館者に特攻のことを伝える役割を引き受けることになります。もし、板津さんが生き残っていなければ、今の形で特攻平和会館は存在しないことになります。

 

散っていった人と、生き残った人。いい悪いではなく、それぞれに意味があった。知覧特攻平和会館に行くだけで、何か感じるものがあるはずです。

 

今の日本が、なぜあるのか。誰が何を思って、日本を残したのか。日本は何のために戦ったのか。特攻とは何だったのか。

 

歴史を知ることは、日本を知ることに繋がります。

 

今の日本がなぜあるのか。特攻のことを調べるだけでも、少なからず、みえてくるものがあります。可能なら、知覧にも足を運んでみてください。

 

今日はここまで。では。